湯口屋の発祥については、平安初期の嵯峨天皇(786-842)の時代へさかのぼるとする、安政五年に書かれた言い伝えがあります。
弘仁九年陰暦七月、嵯峨天皇の病気が回復しないため、天皇に仕えていた三人の兄弟が八幡宮にお祈りしたところ、「陸奥の国岩瀬の群の西、二岐山の麓に鶴沼川という川がある。その南の方に熱い湯が湧き出ているところがある。その湯垢をとり御薬となされば病気は直ちに本復するであろう」とお告げがありました。
そこで「湯垢をとってまいれ」との天皇の命令により、兄弟は陰暦七月末のころ都を出発し、はるばる神のお告げにしたがって、その場をさぐり当てたのは陰暦八月十五日のことでした。
この日はお告げのあった八幡宮の祭礼の日であり、まさしく神の手引きのたまものだと喜びながら湯垢をとり天皇にさしあげました。湯垢の効き目がはすぐに現れ、天皇の病気はみるみる治ったそうです。
嵯峨天皇は三兄弟一族をそこへ住まわせ、温泉八幡神社として崇め奉らせました。この三兄弟は星姓で、それぞれ右京進、若狭之助、丹波といったそうです。
そして、この伝承に登場する星三兄弟が湯口屋、星野屋、角屋という旅館の起源であるということです。
会津地方が戦場となった戊辰戦争(1868-1869)の戦禍には、湯本も無縁ではありませんでした。
奥羽街道の白河から最短距離で会津若松へ抜けることのできる湯本は、官軍の根城にされる恐れがあるとされ、家屋をすべて焼かれてしまったのです。そのため、湯本の建築物は寺社を別として、築140年ほどが最も古いものとなっています。
当館も戊辰戦争後に再建されたものです。
湯本に郵便局が設置された時には、当館の東側の建物が郵便局となり、昭和59年まで使用されていました。屋根のひさし下にはそのころの名残である〒マークを現在でも見ることができます。